東京都庭園美術館 東京モダンライフ展へ
一人で東京へ行くのはいつぶりだろうか。
12月以来かもしれない。さらに、庭園美術館は何年ぶりだろうか。リニューアルされてから初めての訪問だった。
真夏のコロナ禍、庭園美術館の庭は目黒の駅前とは違って少しだけ涼しい。入場門では検温チェックがあり、スタッフの熱中症の心配をしてしまう。こんな光景も、今年だけだと願いたい。
思った通り、庭園美術館は人もまばらだった。およそ100年も前に人の手で作り上げられた芸術が東京の真ん中でいまだに残っていることが、信じられない奇跡。
コロナ禍で、ネットで美術作品が公開されていたけれど全く違う。本物を、見て空気を感じることと、画面で見るのとは。雲泥の差だと思う。
お金を持っている人は、どんどん美術品を買ってほしい。心を潤すだけでなく、後世に残す為にも、存続させるためには庶民が指をくわえるなか道楽と言われようとも美術品を継承し続けてほしい。税金でできることは限られている現代だから。
東京大震災後の、復興と混乱の中で大いに贅を尽くして作られた旧朝香宮邸。
当時の、市井の人々の血税から今も残されていると思うと、そこに住まう人々だけではなく、その時代に生きた全ての人に思いを馳せられる。そんな「時代」をも感じられる素晴らしい展示だった。
一日n善
生協で溜まったポイントを、九州の洪水被害に寄付をした。ポイントが貯まる度に、自然災害が世界中の何処かで発生しその度にポイントを1000円分寄付している。災害の頻度が多い。
翌日、雨の中子供の荷物を学校に取りに行く。ついでにクラスメイトの分も持って帰ってきて届ける。そんな大したことないことでも、誰かの役に立つことをして日々を過ごすようにしようと思う。
偽善でもいい。自分がしてもらったら嬉しいこと。余計なお世話にならないように。
小さな善をすこしずつ重ねていきたい。
それによって、自分の生きている価値が少しでも高くなるのならば。他人によってしか、私自身は見えてこない。自分のことは、自分以外の他人が実は一番よく知っている。
一日一善でも、何千でも。
永い言い訳
一人で夜中にAmazonPrimeで鑑賞した映画「永い言い訳」。
西川美和監督が、昔から好きだった。それは、登場人物の人間臭さだった。
「ゆれる」は映画館に2度見に行き、私の核をついた。
「ディア・ドクター」は、余貴美子の演技に圧倒されつつ、人間の弱さを見せつけられた。
今回の「永い言い訳」は、美しい本木雅弘主演でありながらのクズな男性っぷりが見事であると同時に、子役の二人があまりに素晴らしく冒頭から泣けた。
残された遺族、竹原ピストルが亡くなった奥さんの残した留守電をずっと聞くシーン。私も大好きだった人の声をずっととっておいてずっと一人で聞いていた。もっくんが、何かを思った時に溢れ出る言葉を書き留めることも、20年以上同じことをしている。
まるで、自己投影された残された演者たち。
悲しみは、どんどん失ってしまうから、悲しいと思える時に思い切り悲しめるようになりたい。そう思えた。
モッくんのマネージャー役が言う「子育てって免罪符じゃないですか」
というセリフにハッとした。男にとってと続いたけれど、それは男も女も関係ない。
私にとって子育ては、今までのクソみたいなクズみたいな人生をリセットさせてくれる。
今、この年齢になって邦画の良さを改めて感じている。
邦画は私にとって、哲学である。
生きるとは何か。風景や音、日本語の美しさを感じ、セリフの細かな部分に触れ、人の汚さや美しさ知る。
それはまさに哲学だ。
先日、昔からの友人に映画を見ない理由を言われた。「人の作ったストーリーを2時間拘束され、その2時間を消費されるのが勿体無い」と。モノづくりを大きく世界規模でしている人に言われた言葉が重くのしかかり、私にとっての映画は、私を大きく形成する大切な一部だと思い知らされた。
映画を見ないと言われただけなのに、私自身を否定されたかのような気持ちになった。13歳の頃に一人で映画を見にってから、何十年経っただろう。私にとって映画は、すなわち生きる道標であり、現実からの逃避でもあり、娯楽という一言では済まされない。
映画が自分を形成したと言っても過言ではない。辛かった15歳から、ずっと見続けてきた。15歳の私を救ってくれたのが映画だった。
「永い言い訳」は、子供ともっくんのふれあいが一番の見どころ。ただ、演技の枠を超え、もっくんの、子供に対しての扱いがうまい。彼の子育てを、垣間見るようで、暖かい気持ちにさせてくれる。
この映画の主題、愛とはなんだろう?最後に答えは出るけれど。一人一人その答えは違う。私の答えは、愛とは責任だ。
映画は、自分の答えを引き出してくれる。西川美和監督の作品はいつもしばらく自問自答させてくれる。インタービューを見ると、彼女が40歳近くなってできた価値観の集大成と言ってた。同じ年齢になって、共鳴するのも深く頷ける。
私にとって「今」見てよかった。
呪いからとけた40才
20代中盤から、繁殖期に入った。
結婚をしないといけない、なぜならば私は自分で十分に暮らしていけるほど稼げる仕事についてもいないし、そして何より会社が嫌いだった。仕事は好きだったけれど、職場がどうしても馴染めず、とにかくこの場から逃げ出す手段は結婚しかないと思っていた。
そして、繁殖期になると「モテ服」で武装した。
いつだって、オトコ受けのいい服を着て、オトコ受けのいい返答をして、オトコ受けのいい化粧をすれば大抵の男性に好意を持たれた。誰にでも受け入れてもらえる外見を作り出した。
その時に限っては、誰にでも受け入れられるけれど、本質的な自分を出す段階でいつも失敗する。そんな人だと思わなかったと。
服は記号である。
服はその人を表す表現である。
誰にでも受け入れらるるモテ服とは、すなわち、自己表現を極限まで隠しマジョリティと化すこと。そんな服装で偽った自分は誰からも受け入れられなかった。だって、着たい服を着ていたわけではなかったから。それは、本当の姿の自分ではないから。
その後運良く、モテ服で武装する前からの友人だった今の夫と結婚して、とても暑い土地に住み、ファッションよりも実用的な暑さ対策の服装になった。そして出産していつだってボロボロの洗える服になった。
40歳になった今、ようやく好きな服を買い始めている。15年以上、好きな服を着ていなかったことに気がつく。
数年前、子供の幼稚園で感じていた、記号のように同じコンサバママたち。あの中にいるだけで、虫酸が走った。今の方が、いろんな趣味嗜好の人がいる。自分の好きな服装で自己表現することは、生活する上でとても重要だと今更気がついた。
とはいえ、そんなにおしゃれな人間ではない。ただ、自分が着たい服を着るというそれだけ。高校の時の制服も大嫌いだった。
40才を迎え、やっと本当に自分が好きだった服装を、人の目を気にしないで着る勇気を持った。人にどう思われるかをいつも思いながら服を選ぶ呪いから解放された。誰に、どう思われてもいい。自分が好きならそれでいい。
15歳でしか着られない服、20歳でしか着られない服、29歳までしか着られない服、40歳から着られる服。服にも消費期限がある。その時の感覚や、体型、時代、流行、それを踏まえて、今しか着られない服がある。
自分が今着られる服は、いま着ないと、一生着られない。
だから、私は今着たい服を着る。それで友達が減るならそれでも構わない。だって、それが私だから。
今できることを少しずつ
6歳になる子にせがまれて、近所の友人を招いて誕生日会をした。家に招いて、ケーキを食べて、遊んだだけだったけれど子曰く「人生で一番最高の日」。
本来の自分だったら、子供の親が来るのもめんどくさいし、いつも通り家族だけで過ごせばいいじゃないの。と、言っていたはず。
しかし今の自分の中のテーマ「やらないよりやる」を実践。人はいつ死ぬかわからない。子供が誕生会をやりたいと言って、翌日死んだら、絶対に言う「やってあげればよかった」と。
そしてもしかしたら私が誕生日の翌日死に直面するタイミングがあったら絶対に思う「やればよかった」と。その気持ちを維持しながら生きるのは、相当なパワーが必要なんだけど。
人との接し方が大きく変わった。
いつ死んでもいいように、後悔なくその瞬間を生きる。
映画 日日是好日
前回見た「サニー」が合わなかったのもあり、アマゾンプライムの邦画に期待できないのではと半信半疑であった。しかし晩年の樹木希林を見ておきたいと思い鑑賞。
これが、期待に反して素晴らしい作品だった。
恒久的に素晴らしいのかというと、それはわからない。今の、私にぴったりと来るテーマだった。
華やかで美人な多部未華子と対照的な主人公の黒木花。地味だけれど、自信をつけてとても美しく成長していく様や、コツコツと体で覚えることを続けることで見えてくるもの、生死感、一期一会、移りゆく美しい日本の季節とその音、文字の持つ精神。
中年になって初めてこの作品の良さがわかるのではないか。きっと20代の頃にはわからなかったであろう、時間が作る成長記録。
この映画で扱われる茶道というものは、マインドフルネスだ。
茶道を習慣として行うことで整えられる精神がそこにある。決められた所作をただひたすらに繰り返すことで見えてくる、精神の向こう側。ここに行き着くことは悟りか。
「選択の科学」という本で書かれていた、決められたルールが多い中で少ない選択をすることの方が、多くの選択を持つ人間よりも幸福度が高いという言葉を思い出した。決まり事の多い茶道の世界で、体が覚えて、勝手に動くようになることの先に見える世界、それを知れるのはなんて幸せなんだろう。
この映画が私に語りかけてくれたのは、会いたい人には会うこと。そして、何かを継続してやり続けること。何も継続できない私が続けられるのは、この日記くらいかもしれない。そして写真を撮り続けよう。どんどん興味を持って、続けられる何かを見つけたい。
今、たまたま偶然にもこの映画を見ることを選んだ自分の勘を褒め称えたい。日本映画の、美しさを見た。日本人に生まれて、この映画に共感できてよかった。
私は、日本映画の自然を感じる音がとても好きだな。それは15の頃に初めて一人でポレポレ座で見た映画の影響かもしれないけれど。思春期の人生における影響力の強さよ。