ピンキリ通信簿

ピンキリなモヤモヤを昇華するただの日記

大人になること

人生で一番辛かったあの時、15才。あの時に、探していたのは、信頼できる大人だった。心から、思いの丈を誰かに話したかった。

いま、大人になって、15才の子供に頼られたら、わたしはしっかり受け止められるだろうか?

あの時に、大人に頼れたら人生変わってたかな。15才から見たら、今のわたしはすっかり大人である。自分では、15から止まっている。あの時に、もう子供であることを辞めたのに。大人にもなれずにいる。

自分がどんな人間になりたいか、きっと私は15の頃の自分に頼りにされるような大人になりたい。

なんて前向きだろう。

寄り添える人になりたい。

遥か遠いなー。

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七夕

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七夕ゼリー


今まで考えたこともなかったけど「七夕」と書いて「たなばた」と読むのはなぜだろう。

小3の娘は近頃クイズ番組に夢中だ。最初、クイズの何が楽しいんだろう?と側から見ていた。忘れていた記憶が蘇って、ああ、私も知らないことを知ることが大好きな子供だった。

雑学が大好きで、雑学新聞を作って貼っていた。

東大出身の東大王が大好きな娘を見ていると、自分の子供の頃を思い出す。

中学の頃、恋だと思ってた1つ上の先輩はとにかく頭が良かった。結果的に、彼は東大に進学し、今でも東大で先生をしている。

男性の好みまで遺伝するのか。

娘の夢は「東大へ進学すること」。無理無理ってわかってるけど、それは言わない。「東大出身の人と結婚すること」って言わないでくれて良かった。夢は、自分でつかんでほしい。それが無理だろうとしても夢見てほしい。

誰かの成功に、乗っかるのではなく。

娘が初めて知る雑学に、一緒に驚くことも多い。こんなにも、自分は知らないことが多かったのかと。

七夕は、宮中では「しちせき」だったらしい。中国での七夕は旧暦でバレンタインデー的な日だとか。日本だとどちらかというと、願い事の日。

まだまだ知らないことが多い。この先の人生、知る欲求を失わずに生きていきたい。欲求を維持することが一番難しい。

生きる欲求

家族ができてから一番良かったことは、死にたいと思う頻度が9割減ったこと。

それでもたまに、家族を置いて死んでしまいたいと思う時がある。結婚するまでは、心の底から、自分が死んでも誰も悲しまないと思って生きていた。

もしも今、独身で、子供もいなかったらきっと死んでいた。

今は、生きたいと思う。生きるという人間の根本的な欲求が湧いてきた。

人はあっけなく、唐突に、生きたいと思ってる人でも死んでしまう。

昔は、いつ死んでもいいと思って行動できたことが、今は怖くてできない。

しかし今は、いつ死んでもいいように、悔いがない今を生きたいと思う。

本当に、人は若くても、あっけなく死ぬから。

独身で生きている友人たちを心からすごいと思う。一人だったら私はとっくに死んでいると思う。彼らは強い。

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雲のように風のように

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昨夜BS12で放映された「雲ように風のように」を見た。初回放送は30年ぶりとあったが、私が初めて見たのは1993年のGWだった。

まだ12歳だった私は、この世界観に衝撃を受けたのを忘れない。

その2年後の夏休みの自由研究は「宦官の作り方」。映画「ラストエンペラー」も雷に打たれたかのような作品だった。清朝に魅了され、故宮を夢見て、15歳の頃の夢は、北京に住むこと。

結局、北京に行くこともなく40歳になろうとしている。

雲のように風のように」を、27年ぶりに見て、私はあの当時本当に絵を描くのが好きで好きでたまらなくて、コリューンの絵も銀河の絵も、あの一度の放送で魅了され、書き続けていたことを思い出させてくれた。

中国各地から集められた少女たちの民族衣装も、今の私を作り上げた源であった。あの放送を見てから、図書館の民族衣装図鑑を読み漁り、あの貪欲な中学2年生時代は、無敵だった。

そして今、毎晩のように私は、百度の地図で北京の街をストリートビューしている。

そして眠りにつく。

夢の中で、北京に住みたかった15歳の私が北京を闊歩する。27年った今でも、この作品を偶然目にしたことで私の中のアイデンティティは存続している。このアニメーションの製作者全てに感謝をしたい。あの時、全く理解できなかった細かな演出が、40になって初めて理解できた。

コロナと子育てが落ち着いた時、RX1を持って北京に行きたい。

それが今の生きる希望かもしれない。

原点回帰のとき

自分が何を好きだったかをこの10年で忘れてしまった。

行きたいところも我慢。やりたいことも我慢。自分を押し通すことで摩擦が起こるならばそれを避けたいという性格が災いして、人生においての余白を何で埋めていいのかわからなくなってしまった。

ずっと続けたいことを考えた時、プロの道を諦めた写真をもう一度撮りたいと思った。

あの時、スタジオを諦めたのは、消費される写真を撮って生きることが辛かったことだったけれど、大人になってわかるのは、逃げ道の言い訳をうまいこと言ってるだけだった。

商品写真なんて誰にでも撮れる、うまく仕事を取れるカメラマンは技量よりも性格だと知ったとき、自分には向いてないとはっきりわかったのだった。

あれから何十年も経った。私が、人生で切り取れる瞬間を残したい。誰かのためにではなく、自分のために撮りたい。子供が小さいうちは、写真を撮ることを諦めていたけれど。

諦める人生を、もうやめよう。

そして、ずっと諦めていたカメラを買った。新しいカメラは、新しいカバンよりも新しい靴よりも、新しい服よりも、私を高いところへ連れて行ってくれる。この高揚感。

素晴らしい写真を撮りたいわけじゃない。

私しか撮れない写真を撮りたい。それはきっと、一生探し続けるであろう。

自分が何を続けていきたいのかが少し見えてきた。結局新しい挑戦というよりも、自分が作ってしまった殻を、少しづつ穴を開けて新しい空気を入れることだった。

私が好きだったことって何?母親になる前に。私が好きだったものって何?私が一番ワクワクした瞬間っていつだった?自分の中に問いかけて、少しずつの原点回帰。

カメラは明日届くんだ。